壱岐の旅
**** 壱 岐 行 ****
1990年6月下旬、壱岐を旅してきました。
ほんとは、韓国の済州島へ行く予定だったのですが、
台風のため飛行機が飛ばず、急遽、壱岐に旅することに
なったのでした。
とりあえず博多
博多に着いた。
新神戸から、ひかりで3時間。
わりと近いものだ。
それにしても、きのうは散々だった。
済州島行きの飛行機は、4時まで待たされたあげく、
結局は、<台風のため欠航>の貼紙1枚でエンド。
それなら、他の島へ行くかと、
空港からの帰り道、<JR時刻表>を買った。
韓国AND島=済州島だったわけだが、Jは韓国をとり、僕は島を
選んだということになる。
さて、済州島の近くの島というと、五島列島だが、
島数が多いので、今回はちょっと回りきれない。
実は、済州島からの帰りの飛行機はキャンセルして、
長崎行きのジェットフォイル(高速船。済州島ー長崎、4時間30分)に
すべく予約を入れていたのだ。
これだと、ひょっとしたら五島列島をかすめるので、いいなあと思っていたのだが、
行きの飛行機が飛ばなかったので、おじゃんになってしまった。
次に、もうすこし東へ目を移すと、壱岐。
これこれ! 壱岐へ行くのだ。
でも、五島列島も捨てきれない。
甑島へも行ってみたい。
と、迷う。迷う。おおいに迷う。
結論。ま、いいか。
とにかく、博多まで出よう。それから決めることにした。
で、とにかく朝6時に目がさめた。
着替えと時刻表の入ったバッグを手にして玄関を出る。
空模様をちょっと眺めて、傘も持って行くことにする。
ダイナはJALANAがソウルに持ってったので、全然ない。
まあ、ダイナよりも傘の方が装備としては役に立つことだろう。
タクシーをつかまえて、新神戸の駅へ。
時刻表を出して調べると、6:45発博多行きひかり151号に
間に合いそうだ。(タクシーメーター横の時計を見た。)
駅に着いた。駅の時計では、6:40
博多までの特急券と、博多唐津ミニ周遊券を急いで買う。
新神戸から博多までの営業キロ数は586.4kmだから、
片道が601km以上に適用される往復割引(帰りが2割引きになる)は
使えない。
JRの運賃表によると、
581ー600km 片道 8860円 往復 17720円
601ー640km 片道 9170円 往復 16500円(割引あり)
となり、逆転現象が起こる。
ところが、博多唐津ミニ周遊券なら、16580円と、
東は門司、西は唐津、南は佐賀までけっこう広い範囲を乗り放題で、
かつ、単純に博多往復よりも安い。
さて、ホームに上がると、ちょうど列車が入ってくるところだった。
ホームの売店はまだあいていないので、車内で駅弁を買うことにする。
(ほんとなら、新神戸駅の駅弁<肉めし>を買うのだが。。残念)
禁煙自由席の2号車はよくすいていた。
2人席の窓側に席をとって、通路側にはバッグをおく。
すぐに駅弁を売りに来たので、お茶といっしょに買う。
朝飯が済んだら、ひと眠りしよう。
なにしろ、ふだんは9時まで寝ているのだから。。。
Tシャツを1枚出して重ね着する。これで寝る準備OKだ。
で、うつらうつら、ほんとに寝たりしているうちに、。。
いつのまにか、小倉。そして、博多に着いた。9:54。
博多を歩く
新幹線をおりたところで、まず、せねばならぬことがある。
きのう(25日のこと)欠航になった済州島行きの飛行機は、
きょう(26日)18:30の便に変更されているので、
まず、これをキャンセルしておかねばならない。
もちろん、帰りの便も同時にキャンセルしておこう。
そして、きのう午前中に予約した、済州島ー長崎のジェットフォイルも
キャンセルしなければならない。ひいひい。
で、大阪の大韓航空にまず電話。
なかなかかわいい声の女性が出た。
<リコンファームした25日発のKE755便ですが、
昨日台風のため欠航になったんで、キャンセルします。>
と伝えると、
<申し訳ありませんでした>と丁重な返事が返ってきた。
うん、気持ちよか。
<で、必然的に、帰りの27日発KE613便もキャンセルしますのでよろしく>
と、付け加えた。
次に、神戸のJTBに電話。
済州島行きの飛行機欠航のため、行けなくなったので、
帰りの船も必要なくなった旨を伝える。
欠航になった飛行機の便名を確認された後、キャンセルしましたとのことで、
これにて一件落着。
窓口の女性には、きのう船を予約するのにずいぶん骨折ってもらったので、
気の毒な気がするが、しかたがない。
テレカがずいぶん余っていたので、今回10枚ほど持ってきたのだが、
ここまでで2枚パーになった。電話機横のゴミ箱にほかす(捨てる)。
3番目に、九州郵船に電話を入れる。
博多発壱岐行きの船の時間と、<出欠>航の確認である。
どうもきのうから疑り深くなってきている。
定刻通り出航いたします、との返事だったので、安心。
よし、壱岐へ行くことに決定。
最後に、T氏に電話。(はたしてこの時間におるかな?)
いま、博多!
T:<おう、おう、やけくそですなあ。>
これから壱岐行きますねん。
T:<ははは、壱岐ですか。。。>
ところで、Jたち、なんか書いてた?
T:<ぜんぜん>
えとね、よい子のぐるんぱはプサン行きがソウルに変更になって、
ホテル代、メシ代タダでいい思いしてますよ。
Jはきょう10時の飛行機でソウルへ行く予定
(と、ちゃーんと、空中分解してしまった済州島トリオの消息を伝えておく
)
T:<ところで、ダイナは?>
Jがソウルへ持っていったわーー
T:<えー!? ほな、あんさんの装備は?>
まさか、持ってくわけないでしょが(重いLEを)。傘だけ!
(まだ98NSは来ていない)
T:<げーー>
野宿するにも傘は役立ちますよってなー。
(ダイナは枕にもならんど。)
T:<まだ宿とってませんのかー?>
そんなん、いつものこってすがな
(壱岐に行くのん決めたのもたった数分前のことやのに。。。)
T:<ほな、ボードにそない書いときますわ>
すんません。よろしうたのんます
とかなんとかしゃべってるうちに、テレカがまた1枚成仏した。アーメン。
さて、これで心おきなく博多のまちへ出られる。。。。
まずは、駅の観光案内所へ。
博多の観光案内図をもらいに行くのだ。
福岡の案内図を見ると、
<福岡??博多>という欄がある。
それによれば、那珂川をはさんで
西が城下町福岡、東が商人の町博多に分かれていたそうで、
その名残とか。。。
福岡という名前も、たしか、藩祖、黒田官兵衛如水の出身地播磨の地名から
来ているみたいだが、忘れてしまった。
観光案内は表が福岡市街図、裏が観光スポットの写真と説明になっている。
天神、中洲、博多駅、大濠公園、南公園、海の中道・志賀の島などが
挙がっている。
駅前広場に出ると、なにやら人だかりがしている。
長崎からの観光キャンペーン隊が駅前でパフォーマンスを
やっているようだ。
長崎蛇踊りのミニ版や、レオタードGALのジャズダンスなんかがあって
ちょっとの間、見とれていたが、<はっと我にかえって>
駅前バスターミナルから大濠公園行きの西鉄バスに乗り込むことにした。
それでも、しばらくの間、<ながさきをあいしてーー>というメロディーが
耳から離れなかった。
レオタードGALたちはけっこう美人揃いでしたので、よかった。
(水着に近いと、点が甘くなります。年のため、念のため )
10分ほどバスに乗って、大濠公園へ。
途中、南公園の近くを通りすぎる。
このあたり、動物園、植物園があるらしく、標識がたっている。
大濠公園には、昔は入り江だったという大きな池がある。
福岡城跡や平和台も近い。
池のまん中には南北に細長い島があり、散策にはもってこいの場所である。
たぶん、デートスポットにも格好だろうと思うが、
きょうはなぜか人影はまばらである。
公園を見れば、その町の文化、経済がわかる、とすれば、
福岡は文化的なゆたかな町だと思う。
池の外周をジョギングしている外人が多い。
地図で見ると、池の西北にアメリカ領事館があるのだった。
市営地下鉄に乗って、大濠公園駅から天神へ。
銀行、証券、百貨店がたちならぶ福岡の中心である。
三洋証券があったので、ふらっと立ち寄る。
おっ!上がってる。よかばい、よかと。
天神をすぎて中洲へ。
中洲産業大学?の所在地である。
ラブホテル、スナック、料亭などの並ぶ路地を通り抜けるうち、
雨がぽつりと降ってきた。ここで傘ががぜん役立つ。
うなぎ屋のにおいが腹にしみるが、長崎ちゃんぽんにこだわる私は、
ぐっとがまんする。。
那珂川の中洲に開けた、文字どおり<中洲>も昼はひっそりと息をひそめていた。
博多湾をいく
中洲で、長崎ちゃんぽんの店をやっと見つけた。。
入ってみると、うなぎの寝床のような奥行きが深い店で、
一番奥まで入らないと空席(それも相席)が見つからないほど
よく混んでいた。うん、まずは正解、正解。
ほんとの正解は食ってから。。。
相席のおじさんは長崎皿うどんを注文している。
ぼくはもちろん長崎ちゃんぽんである。
こういうときは、相手の注文したのにした方がよかったかもしれない?
などと注文してから思うものなのだ。
ボリュームのある、腰の強い麺は、歯ごたえがあってうまかった。
美女に劣らず、美味もまた追求するところである。
えーと、ぼくは、九州に足を踏み入れたら、1杯は長崎ちゃんぽんを
食べることにしています。
同じく、北海道の場合は、札幌ラーメンです。
四国の場合は讃岐うどんです。
信州の場合は、信州そばです。
以下、省略。
で、意外と、本場で食べるよりも、その周辺で食べる方がうまい場合が
多いみたい。
札幌ラーメンで一番うまかったのは、小樽の店だったし。。。
長崎ちゃんぽんで印象に残っているのは、熊本の国道沿いの大衆食堂の味です。
今回の博多の店の長崎ちゃんぽんはけっこううまかったと思います。
帰りにもいちど食べてもいいなーと、思ったくらいだから。。。
さて、もう時間がないので、タクシーで博多埠頭へ向かう。
13:20発、壱岐芦辺港行きの船がこれから乗る船だ。
九州郵船のフェリーは、煙突はじめ数カ所が赤さびて、
乗船客の中には、<沈まんと?>と、冗談半分につぶやくひともいる。
うーん、飛行機は落ちる、船は沈むわなーー。人は死ぬ。
Jの乗ったピヘンギ(飛行機)は無事着いたであろうか?
定刻15分前、乗船が始まった。
2等船室内は、すいているものの、それでも窓際あたりのスペースは
もう占領されている。
まん中の通路側に貸出毛布を敷いて、出航を待つ。
<本船は定刻通り博多港を出航いたしました。。>の船内放送が流れると
同時に、船が動き出した。
放送は、<博多港を出ますと、波浪のため搖れますので、ご了承下さい。。>
と、続く。
やっぱ、台風の影響かな?うねりがあるのかもしれない。
しばらくの間、船上からの景色を楽しみべく、デッキに出る。
遠ざかっていく博多埠頭、博多の街。。。
右手前方には、博多湾の天然の防波堤となっている海の中道が
すーとのびている。その突端には金印の出土した志賀の島が見える。
江戸時代、志賀の島の百姓が掘り当てた<漢委奴國王>の金印は、
黒田家の家宝となって、ながらく眠っていたのだ。
百姓さんは、ごほうびもらったんだろうか?
博多湾内はずいぶん広い。志賀の島をすぎると、いよいよ湾外なのだが、
出港してから30分以上はかかった。
ようやく湾外に出たあたりで、船室へ戻ることにした。
この頃には、甲板に出ていた数少ない乗客たちもひとり減り、ふたり減りで
ぼくと、あとは物好きなカップル1組だけになっていた。
ひょっとしたら、ずいぶん邪魔をしてしまったのかも知れない。
2等船室ざこ寝部屋に戻って
大きな毛布を2枚折りにして、しばし、横になる。
すこし搖れ出したようだ。
時折、かじを切るのか大きく搖れる。
ゆりかごのようないい気持ちになっているうちに、
いつしかトロンと眠ってしまっていた。
<本船はまもなく壱岐芦辺港に接岸いたします。。。>のアナウンスに
目がさめる。
あれっ、もう着いたか。
15:35 芦辺港着。2時間15分の船旅であった。
芦辺から湯ノ本
壱岐にようよう着いた。
丸い壱岐を時計に例えるならば、
芦辺は、3時に当たる。
博多からの船は、この芦辺と、7時に当たる郷の浦に
互いちがいに着く。
さて、まずは船着き場の観光案内所へ行こう。
と、思ったが、そんなものは見あたらない。
結局、切符売り場にたずねて、壱岐の観光案内書をもらった。
この観光案内書がなかなかよくできている。
まず、モデルの女性がきれいだ。
B5サイズ20ページという豪華版である。
できたのが90年3月と、新しい。
2ページ見開きの大きなイラストマップがついている。
ハイレグカットの写真が多い。
船、飛行機の時刻表、運賃表、などなどがついている。
旅館、民宿、ペンションについて一軒ごとに、電話番号、特徴、料金
などが詳しいリストが載っている。
ところが、この案内書をもらいにいってる間に、なんと、
船着き場の前に止まっていたバスが2台とも出て行ってしまった。
次のバスは2時間後である。
しかたがないので、だれもいなくなった待合室を出て、
観光案内書に載っている国民宿舎に電話してみる。
その理由。
案内によると、壱岐唯一の天然温泉がある。
ちゃんと、GALふたりが海を見渡す露天風呂に入っている写真つき。
摂氏68度の自噴泉。塩湯。
もしもし、国民宿舎ですか?
宿:<はい>
神戸から来ました、きょう泊まれますか?
宿:<だいじょうぶですが、何名さまですか?>
1名ですが。。よろしく。。
宿:<はい、どうぞ>
(これで、きょうの宿はきまった。)
ところで、そちらへはどう行ったらよろしいか?いま芦辺港にいます。
宿:<えーと、バスはちょうど出たあとですね。タクシーで15分くらいですが>
じゃあ、タクシーでいきます
(送迎バスがあるかな?と期待してたがあかなんだ。。 )
電話ボックスを出ると、ぼくの前に電話してたおばさんが、
なぜか待ってくれている。
<どちらへ行きますか?石田の方ですか?>
と、もしそちら方面なら車に乗せてくれるとのこと。
おばさんの長電話?をじっと待ってたぼくを気の毒がってくれたらしい。
<いえ、湯ノ本の方へ行きますので。。。>と残念ながら辞退して、
街合所の前に、1台だけ残っているタクシーに乗り込む。
たぶん、電話かけてるぼくのようすを見て、待っててくれてたんだろう。
タクシーの運転手も、素朴な感じのひとだった。
国民宿舎のある湯ノ本まで走る間も、
いろいろとたずねてみた。
たんぼがようけありますなー
タ:(うれしそうに)
<はい、米は(島外へ)たくさん出しとります。。>
なかなかゆたかな島みたいですねー
タ:<はー、みなおっとりで、あらいことはようしよりません。>
湯の本には温泉がおますのか?
タ:<はい、国民宿舎が湯元で、あとはそこからひいとります。>
自転車で一周できますか?
タ:<えー、この島は、周囲が139kmあります。大きいです。>
芦辺から湯ノ本まで、ちょうど島を東から西に横断した。
湯ノ本は時計でいうと、9時に当たる。
湯の本湾を見おろす小高い丘の上に<壱岐の島荘>はあった。
通された部屋からも、海が見おろせる。
あいにく、大浴場は修理中とのことで、
そのかわり、3つある家族風呂を自由に使ってもよい。
早速、夕食の前にひと風呂浴びることに。
お風呂からも海が見おろせる。
手をつけてみると、とてもそのままでは入れないほど熱い。
なめてみると、塩辛いので、食塩泉であることがわかる。
水を入れてぬるめたのだが、食塩泉のせいだろうか、
ぽかぽかあたたまる。
湯から出てからも、汗がなかなか止まらない。
うーん、浸透圧の関係かな?
結局、その日は3つとも全部入ってみることになった。
夕食は、国民宿舎だから、全然期待してなかったのだが、。。
意外に、よかった。
国民宿舎としては、上の部に入るのではないだろうか。
味噌汁はあつあつだったし、ごはんもおいしかった。
エビフライはあげたてだったし。。。
(もちろん、そうでないところがまちがっているのだが。。 )
食堂のテーブルは海を見おろせるように、海側に向かって椅子が片側だけに
並べられている。
むろん、宿泊客の少ないときだけだろうが、海を見ながらの食事は
食欲もすすむ。
ロビーカウンターの前にカード電話機があるので、
妻に電話。
五島列島にJといっしょに行ったものと
思い込んでいた妻は、<ひとりで壱岐>にあきれているようす。
まあ、いつものことだと、あきらめているようすもある。
9時すぎたころ、Tさんにも電話する。
けっこう船が搖れたことや、天気予報では、
強風波浪注意報が出ていることなど。。。
ボードのようすなんかを聞いてるうちに、
テレカが2枚パーになった。
湯ノ本の夜
腹もふくれたことだし、宿舎のまわりをうろついてみる。
外は霧雨。
昭和44年に、皇太子が宿泊したらしく、
記念板がたっている。
その時のだろうか、鯉の池とか、展望所とか、動物のケージなんかが
あって、ケージをのぞいて見ると、キジとイノシシが入っていた。
イノシシも雨に濡れている。
<イノシシくん、雨だねー>と声をかけてやると、
金網越しに鼻をすりつけてきた。
なかなか、可愛いやっちゃ。ちょっち、くちゃいけど。。
宿舎までぐるりと回ってのぼる自動車道とは別に、
人間用の階段が下の道路までついている。
展望所からは、湯ノ本湾が見渡せる。
霧にけぶる湾のながめもなかなかのものだ。
宿舎に戻って、
観光案内に載っている、海の見える露天風呂がどこにあるのか、
フロントの女性にきいてみた。
<はい、それは、この丘の下の海老館ですが、きょうは雨ですので、
たぶん使ってないと思います。>との返事だった。
写真では、宿舎からと同じような湾の風景が写っているので、
すぐ近くだとは思っていたのだが、すぐ真下にあったのだ。
さて、もいちど、家族風呂にひとり楽しく入って、
部屋に戻る。
暮れゆく湾の風景があかりをつけていない部屋の窓から見渡せる。
対岸にふたつほど明りのついた建物が見える。
水産工場かなにかだろうか?
ひとり部屋に寝ころんでいると、<旅>を感じる。
夕食の間に敷いてくれたふとんの上に寝そべって、
窓の外を飽かず眺めている。
はるばる来つるものかな。。。
ぼーっと、<独り>を味わうのもまたよし。
いつのまにか、そのまま寝入ってしまっていた。
湯ノ本から勝本
8:25の勝本行きのバスに乗るべく、
朝食を済ませ、勘定を済ませて、宿舎を出る。
イノシシの横を通って、階段を下る。
丘を下り、海岸道路に出たところが、ちょうど、海老館だった。
露天風呂も見える。
おっと、もう時間がない。
湯の本のバス停は、温泉センターの前にあった。
霧雨の中、傘をさしたままバスを待っていると、
Tシャツにも腕にもいつのまにか微細な水玉がいっぱいついている。
腕のうぶ毛についた水玉が白く光るのがなぜかきれいだ。
<みじめさ>を感じることが、旅だとしたら。。。
雨にそぼつきながら、そんなことを考えている。。
軽自動車が1台やってきて、町営温泉センターの前に止まった。
朝風呂にやってきたのか、家族連れがおりてきた。
壱岐バスがやってきた。
乗り込むより先に、運転手が下りてきて、
時間待ちしますので。。。とのこと。
乗降口すぐの一番前の席に座って、ひとり待つ。
車外でたばこを1本喫い終えた運転手は、
<はい、出発します>と、エンジンをかけた。
乗員1名、乗客1名のバスは走りだした。
<天気のいいときなら、景色がきれいなところなんですがねえ。。>と、
運転手は気の毒がる。
<いえ、雨もまたよしですよ。>
バス1台ようよう通れる道を行く。
<島の道は狭いんで、大変ですわ。。>
木の枝がよく茂ったところでは、ときおり、バスの屋根に当たることもある。
いくつ目かの停留所で、傘の水玉を振り落としながら、
おばさんが乗り込んできた。
<おはようございます>
運転手とぼくの両方に丁寧に朝のあいさつをかわすおばさん。
こちらも、<おはようございます>とあいさつを返す。
またいくつめかの停留所でも、おばさんが野菜を手に乗り込んできた。
今度は3人に、<おはようございます>のあいさつ。
さて、
<勝本城跡に行きたいんですが。。>と、運転手に告げると、
<登り口で止めますから。。。>とのこと。
<ここです。あの右手の道をのぼっていくと、城跡です。>
と、教えられて、バスをおりた。ありがとう。
しつこく霧雨の降る中、城跡へとのぼる。
小高く開けた場所、そこが勝本城跡だった。
文禄・慶長の朝鮮侵攻のとき、築かれた中継基地で、
壱岐北端の勝本城は、対馬との連絡にも使われた。
晴れた日ならば対馬が対岸に見えるこの地点は、
狼煙等の通信によって、朝鮮半島の最前線と肥前名護屋の本営をつなぐ
軍事情報の通信拠点でもあったのだろう。
いつの時代も、情報が運命を左右する。
のどかでゆたかな島は、国境の島でもあった。
蒙古襲来の折りには、島守の少弐資時をはじめとする多くの島民が
4万の元軍の前に犠牲となっている。
対馬もまた同じ運命をたどっているのだった。。
攻めるも守るも、国境のひとびとにとっては、
これほど迷惑なことはなかっただろう。
勝本城跡(城山公園)の北側斜面を下ると、勝本の町である。
城山の山腹には、点々と墓地が散在する。
その墓地の一角に、芭蕉の高弟であった、曽良の苔むした小さな墓があった。
白い板垣と説明板がなければ、それとはわからないような墓である。
曽良は、大名領国を視察する幕府巡見使の随行員として、ここ壱岐に渡り、
病を得て、巡見使一行が対馬に渡った後も、勝本に残り、ここで没したのである。
最後の急な坂を下ると、勝本の町に出た。
<朝市>の標識が目につく。
町の案内板を読むと、商業高校1とあった。
城山から見えていた学校がたぶんそうらしい。
港には、大きな電球をいくつもぶらさげたイカ釣り船が
もやっている。
岸壁には、バッテリーが無造作に放り出されている。
夜になると、はるか沖合いで一晩中、まぶしく光るのだ。
漁港の端まで歩いて、戻ってきた。
夏は海水浴でにぎわう辰ノ島行きの乗船待合所も
きょうは固く閉じられたまま。
壱岐北端の離れ島である辰ノ島には、
蛇ケ谷(じゃがたに)という高さ50mほどの断崖や、
きれいな砂浜がある。
10年ほど前に、壱岐のイルカ騒動は、ここ勝本が舞台だったが、
そのとき、イルカたちが追いつめられた浜は、この辰ノ島の
きんちゃく状になった浜だったらしい。
さて、郷ノ浦12:30発の定期観光バスに乗る予定だが、
まだまだ時間がある。
このまま、壱岐島内を時計回りに、バスで回っていこう。
南端の郷ノ浦まで、左回りなら、40分ほどなのだが、
芦辺、印通寺を経由する時計回りなら、1時間20分ほどの旅である。
といっても、2時間に1本しかないバスの関係上、
郷ノ浦には、遠回りの方が結果的には早く着く。
<急がば回れ>は、壱岐のためにあることわざであった。
勝本から郷ノ浦
えーと、ここで、壱岐の地理を簡単に説明しておきます。
ほとんど丸い平たい島なので、時計に例えると、
12時 勝本
3時 芦辺
5時 印通寺
7時 郷ノ浦
9時 湯ノ本
といった感じ。

数字は、壱岐バスの所要時間(分)です。
で、これまたおもしろいことに、壱岐パンのへそに当たる場所に、
国分寺(跡)があるんですね。
さて、
勝本の町をバスは出た。9:37。
乗降口の横の一番前の席が前方もよく見えていいのが、
おじさんがすでに座っている。
といっても、バスの乗客は5本指で足りる。
おじさんのすぐ後ろの席に腰をかけた。
前輪左タイヤの真上で少し高くなっているので、
前方がよく見える。しかし、足がちと窮屈だ。
そうそう、壱岐バスは、神戸市バスとちがって、
乗降口が前だけになっている。
乗るときに、番号のついた整理券をとる。
それにしても、緑の多い島である。
霧雨に洗われた稲が美しい。
勝本からしばらくは山あいを走る。
純農村といった趣の沿道風景を眺めている。
ようやく、海がまた見えてきた。
壱岐の東海岸である。
きのう、ぼくが着いた、芦辺港の待合所のバス停で
しばらく時間待ちとなった。
バスの運転手に、<缶ジュース買ってきます>と言い残して、
しばらく、きのうの待合所内をうろうろする。
缶ジュースを買って、トイレに行って、帰ってきたが、
バスはまだ出る気配はない。
別の運転手と世間話をしながら、たばこをふかしている。
(といって、安心していると、きのうのようにおいてけぼりにされるので注意
結局、芦辺港では、若い男性ひとりだけが乗り込んできた。
出発。
芦辺の入り江を渡ると、対岸に、芦辺の集落がある。
博多からのフェリーが着くのは芦辺の新港なのだ。
漁港芦辺を通りすぎると、きれいに整備された海水浴場が見えてきた。
清石浜(くよしはま)である。
壱岐の海水浴場は、なぜか東海岸に多い。
印通寺に着いた。
ここから、唐津近くの、呼子までフェリーが出ている。
船着場でバスは止まるが、芦辺のように時間待ちはせず、
さっさと通りすぎてしまう。
郷ノ浦までは、また山あいの道に入る。
岳ノ辻登山口を過ぎると、もう郷ノ浦の町に入った。
終点、本町バスターミナル。
(といっても、壱岐交通の小さな建物があるだけ)
でおりる。11:00。
バス料金は1020円だった。
ここから、12:30発の壱岐定期観光バスが出るのだ。
それにしても、芦辺から郷ノ浦までの間、
バスの乗客は、みな、ぼくより年上ばかりだった。
ぼくは、自称、適齢期上限?だから、
適齢期のおにいさん、おねえさんには、まったくお目にかからなかったことになる。
こども連れの若いおかあさんも見なかった。
うーん、いったいどうなってるんだろう。。
郷ノ浦をあるく
定期観光バスの出発まで時間がある。
昼飯を食べるところを探しがてら、郷ノ浦の町を歩こう。
郷ノ浦は、支庁もあって、壱岐の中心的な町である。
十八銀行や、九州銀行などの支店もある。
潮の香りのする川に沿って、港へ向かう。
船着き場が見えたので、回れ右。
戻ってきて、市場の中をうろつく。
水産物はもちろんだが、壱岐牛もなかなかのものらしい。
肉屋には、<壱州牛>ののぼりが立っている。
うーん、米はうまいし、魚はとれとれぴちぴち、牛は放牧されてる。。
なんて、いい島なんだ。
立派な店構えの和食レストランがあったので、入ってみた。
昼なので、天ドンを注文する。
妖怪<ぬらりひょん>に似た、<海部首相>の
写真が飾ってある。
ちょっと、期待できないなあーー。と、その時思った。
やっぱし。。。
案の上、天ドンは、容器だけは立派だが、あまりうまくなかった。
ダシが甘すぎる、天ぷらがべちょべちょだ。
ごはんを残すことのめったにないぼくが残して出た。
失敗。失敗。反省。
写真館があった。
立派な構えの写真館が昔なつかしい。
ショーウインドーに飾ってある、写真を1枚1枚眺める。
家族揃っての写真、結婚式の写真、お見合いのための写真、赤ちゃんの写真。。
などなど。。
じーっと見ていると、写真が語りかけてくるのだ。
<わし、イカ釣り船の漁師。これがべっぴんのかーちゃん。。>
<船にもこれと同じ写真飾ってるで。まー、イカで一杯やれや。
<わたし、壱岐っ娘。この写真のおかげで、いまは幸せ。。>
・・・・
路地を抜けると、店が並んでいる通りに出た。
おっ、やっと、適齢期の女性がいました!
高校生の一団と遭遇したのだった。
壱岐の女子高生て、可愛い子が多い!
(ちいと点数が甘くなっとるかな。ばーさんの連続だったきに。。
)
通学路らしく、スポーツ用品店、婦人服の店、おもちゃ屋、文房具屋、
書店、かばんなどの小物を扱う店、などなど、、並んでいる。
どの店も、数人の高校生でにぎわっている。。
ぶらぶら歩いていると、小さな神社があった。
観光案内にも出ている、<下ル町塞神>である。
石段を5、6段上がると、もう祭殿がある。
祭殿の手前左には、大きな狛犬ならぬ、木製の<ダンコン>が
そびえたっている。 こりゃ、くじらくらいあるんでは?
げげげ。なんだこれ。
右手には、女性の木像があって。。。
こちらは、底がガラス張りになっていて、下からのぞくようになっている。
(もちろん、後学のためにのぞいてみた。 )
由緒書きを読んでみると、
<昔、壱岐に上陸した男たちは、この塞ノ神に、お参りして、
ダンコンを見せないと、怪我をするという言い伝えがありました。。。>
うーん、これは、なかなかうまいCMである。
遊女の原型は、巫女であるという説があるが、
そうなのかもしれない。
ビッグコミックに、<土佐の一本釣り>というのがあるが、
それには、逆に、漁に出た夫、あるいは恋人の無事を祈るために、
女性が神社にお参りして、<神様に>ちょっとだけ見せる。
という話があった。実話かどうかは知らない。
拝殿の中に上がると、浮世絵のようなのが何枚も
壁の上の方に掛かっている。
とてもリアルな乳房の模型(原寸?の1.5倍くらい)が
男性名で奉納されていました。
さて、本町バスターミナルの待合室に戻った。
バス通学の高校生たちで一転、にぎやかである。
なんだかうれしい。
定期観光バス
12:30が定期観光バスの発車時刻だが、
まだ20分ほどある。
そうそう、この間に、きょうの宿を探しておこう。
きれいな砂浜の多い、東海岸で泊まることにして、
早速、観光案内に載っている民宿案内所に電話をかけた。
もしもし、きょう泊まりたいのですが。。
海水浴場に近くて、海の眺めがよくて、バス停に近いところ、
ありますか?
(と、言うだけは言っておく。)
案:はい、それなら、千賀荘さんがあります。
白鴎さんも眺めはいいですが。。。
宿の方へは、直接電話してもらえれば。。
と、いうことで、千賀荘にまず電話する。
民宿案内所に電話したのは、いい民宿を教えてほしかったから。。
いきなり飛び込みでいくと、とんでもないとこにたま当たることがある。
(教訓である。 )
もしもし、千賀荘ですか?
きょう1泊お願いしたいんですが。。
千:は、きょうですか?
(しばし、沈黙している。。だめかな?)
はい、どうぞ。
これから定期観光バスに乗りますので、そちらへは
5時頃に着くと思いますが。。
千:電話してもらえば、迎えに上がります。
ところで、料金の方はどうしましょう?
ああ、いくらくらいですか?
千:6000円からですが。。
じゃあ、2000円アップの8000円でお願いします。
(これで、夕食に一品料理がいくつかつくだろう。)
印通寺からまた電話しますので。。よろしく。。
きょうの宿がこれで決まった。
<定期観光のお客さま、バスが到着しましたので、ご乗車下さい。。>の
アナウンスが流れた。
すこし小ぶりのバスが止まっている。
しかし、最新鋭の豪華バスのようだ。
壱岐のバスでは、一番なのは確かである。
バスに乗り込むと、運転手さんがあいさつしてくれた。
<きょうのお客さんは2名です。。
もうひとり、乗って来られますので。。>
運転席の横がパノラマシートになっていて、
見晴らしがとてもよい。
そこに席を決めて、運転手と発車までしばし雑談。
<いい車ですねー!>とまずはほめる。。
壱岐の道路は車1台がぎりぎりの道が多いので、
定期観光バスはすこし小ぶりになっていることなど
教えてくれる。
運転席のテレビ画面に1、3、5等と、数字がついているので、
<なんですか?これ>とたずねると、
後方を見るテレビにもなるとのこと。
バックギアが入ると、バスの後方がテレビに自動的に写る。
実際にやってみせてくれる。
1、3、5等の数字は距離(メートル)だとか。
乗客2名というのは、いくらなんでも少なすぎると思うので、
たずねてみたら、やはり、最低記録なんだそうだ。。
逆に、乗客が多いときは、バスを増発するらしい。
とか話してるうちに、貴重な?もうひとりの乗客と一緒に、
ガイドさんが乗り込んできた。
ちょっと豊満な、しかし若い適齢期の女性である。
乗客は、初老の婦人。
ガイドさんに、きのう国民宿舎で買っておいた定期観光バスの切符を渡す。
<きょうは天候が悪いので、景色が見えないかもしれませんねーー。>
と、いかにも残念そう。
<あした晴れなら、もいちど乗りにきますよ。。>と言うと、
切符をそのまま返してくれた。
乗員2名、乗客2名の定期観光バスはかくて出発した。
まずは、郷ノ浦の船着き場へ。
たった今着いたばかりのフェリーの乗客の中に
定期観光バスのお客がいるかもしれない?
と、ガイドさんは期待しながら船着き場の観光案内所に
向かったが、ひとりむなしく戻ってきた。
これで、本日の乗客2名が、確定した。。
岳ノ辻
パノラマシートは運転席すぐ隣だから、
まるで副操縦士?のようなもの。
男どうし話がはずむ。
ガイドさんの方は、もうひとりの乗客であるご婦人と
女どうし話をしている。
という、普段の定期観光バスなら考えられないような
けったいな人間模様となった。
運:ところで、壱岐はおひとりですか?
はあ、実は済州島へ行くつもりが、飛行機が台風で飛ばなくなって。。
運:あちこち行ってますねんなー。独身ですか?
いえ、妻もこどももおりますよ。
運:うらやましいですなー。なんにも言われませんか?
いや、なかなか。勝手が服着て歩いてる!なんて言われてますよ。
運:きょうはどこで泊まりですか?
ええ、印通寺の近くの民宿をとってます。
それで、帰りは印通寺で降ろしてもらえますか?
運:はあ、いいですけど、最後にウニ工場見学があるんですけど、
かまいませんか?
ウニ工場ですか!行きたいなあ。
ほなら、バスで印通寺まで戻ることにしますわ。
運:ちょっと待って下さいよ。。。ガイドさん。
ガ:はい、なんですか?
運:お客さん、きょうの泊まりが印通寺ゆうことで、
ウニ工場へ行けなくなるけど、
順番変えられるかなー?
ガ:えーと、別にわたしはかまいませんけど。。
運:そしたら、先にウニ工場行くことにします。
と、いうヒジョーに融通のきく運転手とガイドさんのおかげで、
印通寺まで戻らなくてもよくなった。
で、まずは、壱岐最高峰!の岳ノ辻へ。
先ほど、朝方バスで通り過ぎた登山口停留所から
バスは岳ノ辻方面へ曲がって、緩やかな勾配の坂道をのぼっていく。
ガイドさんは、いきなり、いつものガイド口調に戻って、
<えー、今から上って参ります岳ノ辻は、壱岐では、最も標高が高く、
そのため、壱岐全島がここから見渡すことができます。>
と、ここまではいい調子で、
「でも、きょうはこんな天気で霧で見えませんねーー。」(本音に戻る)
<右手には、さきほど出発しました郷ノ浦の町が。。>(ガイド口調)
「やっぱり見えませんねーー。
この分だと、上まで登っても見えないかなーー」(本音)
<岳ノ辻は、標高212メートル。壱岐ができたときの火口の跡と
言われております。ここからは壱岐全島はもちろん、晴れた日には。。>(ガイド口調)
「だめですねー。霧で10メートル先も見えませんねー。
降りられますか?なにも見えませんけど。。
このまま行きましょうか?」(本音)
というわけで、壱岐最高峰では、バスの窓から霧見学となった。
景色なんかよりも、ガイドさんのプロ意識と個人的本音の葛藤が
実におもしろかった。
ガイドさんの説明では、壱岐は火山島で、玄武岩質とのこと。
それで、湯ノ本には、温泉があるのだろう。
地下水も豊富で、水道や農業用水にも使われているらしい。
ウニ工場
岳ノ辻から下ってきて、次は、順番を変更したウニ工場見学だ。
ウニの工場だから、浜にあるのか、と思っていたら、
さにあらず。
たんぼのどまん中に、あった。
きれいなガラス張りの衛生的な近代工場である。
へー、全然、イメージとちがうなあ。
ガラス越しに、ウニを詰めている白衣のおばちゃんたちのようすを
眺める。
あっさり見学をすませて、ウニ製品の展示即売場へ。
ガイドさんが、バスをおりる前に、
<オンダコ>を見せてくれて、こどもさんのおみやげにいいですよと、
教えてくれていたので、探してみる。
<オンダコ>。鬼凧、である。
百合若大臣の兜に鬼がかみついている図案の素朴な凧である。
まずは、これを買うことにする。
ウニ製品の試食コーナーがあるので、いくつか食べてみた。
うーん、うまい!
粒ウニ、新ウニ、あわびウニ、等など。それぞれになかなかいける。
ぼくはあんましウニは好きな方ではないのだが、
ここのウニはたしかにおいしかった。
買って帰ろうかな?という気持ちに傾く。
しかし、なまものだからもたないなー。どうしよう。
イカの一夜干しなんかもあって、新鮮でうまそう。
係の女性に、<持って帰れないんだけど。。>と言うと、
それなら、クール宅急便がありますとのことだったので、
ウニとイカをおみやげにすることに決定。
これで、帰ってからのオニ対策ができた。
(ウニも評判よかったけど、イカが非常にうまかった。)
(安いので、もっと買ってくればよかったと、帰ってから思った。)
さきほどのオンダコもいっしょに送ってもらうことにして、
バスに戻る。
もひとりのオバサンも、手提げ袋1ぱい買ってきたようすだ。
ぼくは、手ぶらで戻ってきた。
ウニ工場から、記念品とかで、絵馬のようなものをくれた。
これもおみやげの内に入れようっと。
猿岩と黒崎砲台
ウニ工場をあとにして、いよいよ黒崎へ。
運転手さんが、いつもと道順がちがうので、
ガイドさんに、<あっ、まちがえた。こっちでよかったんかな?>と
たずねている。
ガイドさんの方が道に詳しいようだ。
黒崎は、きのう泊まった湯ノ本の西にある岬である。
ここには、猿岩と呼ばれる、大きな猿に似た岩と、
東洋一といわれていた砲台跡があるのだ。
ガイド口調に戻って、説明が始まった。
<このあたり一帯は、戦前は要塞地帯として、一般人の立ち入りは
固く禁じられておりました。軍縮条約により廃棄処分となりました
戦艦土佐の主砲を取り付けたのがここ黒崎砲台です。>
説明によると、昭和の初めくらいから、10年以上の歳月をかけて
砲台を建設したらしい。
用地買収のあとは、陸軍2個中隊の他は、何人たりとも通さなかったとか。
途中、営門跡があって、
一の門、二の門とある。
門を入ったすぐには将校の住居跡が残っていて、
いまも使われているようだ。
壱岐の病院長で、当時、軍医だったひとでも、ここへはなかなか
入れなかったという話を運転手さんがしてくれた。
乗客のおばさんも、(実は、壱岐出身の方で)
<わたしも戦時中は、挺身隊で、飛行機やら作らされてました。。>
などと、話し出す。
でも、空襲とかはあまりなかったらしい。
このあたりの話になると、ぼくも<戦争を知らないこどもたち>である。
ガイドさんも黙って聞いている。
<あの向こうにポツンと見えるのが、猿岩です。>
と、ガイドさんが指さす。
ほんと、ほんと、おさーるさーんだよー。
さて、砲台跡に到着。
砲弾等を運び込んだろう、レール跡の残る横穴から砲台の中へと入る。
すべて地下室になっていて、機械室、指揮室などの跡もある。
砲台の西側に小高い丘があるが、その頂にレーダーがあって、
連動式で標的を捕捉するようになっていたとか。
砲台跡は、丸い大きな穴が天に向かっている。
地上の草むらがのぞいているのが地底から見える。。
穴の直径は10メートルくらいはあるだろうか?
何メートルもある厚い装甲のコンクリートに縦すじが入っているのは、
戦後、アメリカ占領軍によって発破をかけられた跡らしい。
結局、完全には破壊できなくて、八幡製鉄の手によって処分されたとか。
兵器というのは、まったくじょうぶにできているものだ。
口径42センチの砲台は、1トン砲弾を38kmの射程で打ち出すはずが、
実のところは、試射のみで、実戦には使われなかったようだ。。
対馬と壱岐の間、68kmを両側から38kmづつの射程で
海峡封鎖するという陸軍の構想は夢に終わったのだろう。
ガイドさんが、
<案内板には、口径40センチと書いてますが、実際は42センチありました。
軍縮条約で40センチを越える砲は禁止されたので、表向きは40センチと
いうことで通したようです。>
と、追加説明。
しかし、陸軍もセコイなあ。
莫大な費用と長年の歳月をかけて築きあげた東洋一の砲台。
その砲台に背を向けて笑っているかのような大きな猿岩。
まったく、キングコングが岩に化したなら、こんなだろうなー?
と、思わせるようなユーモラスなお猿さんであった。
註。ウニにもいろいろと種類があるようです。
ウニ工場の人の説明では、ガゼウニ、バフンウニ、ムラサキウニ。。
とかの種名が挙がっていました。
ムラサキウニがたぶん一番おいしいんでしょうね?
郷ノ浦の町を歩いているとき、<うにめし>の看板が出た店が
何軒かありました。
来島記念
晴れた日なら対馬の見える黒崎を後にして、
湯ノ本方面へ向かう。
湯ノ本湾の入り江に沿って、バスは走る。
きのう泊まった国民宿舎の横を通り過ぎた。
運:昭和44年に皇太子さんが来られましてねーー。
そらあ、大変なもんでした。
ぼくはその1年前に島に戻ってきたとですが、
島中の道が舗装されました。
それでも、間に合わんとこは、塩まいて道固めたりしてねー。
はあ、国民宿舎の前に、<皇太子殿下ご宿泊記念。。>とかが
あったんが、それですね。
運:皇太子さんが通られるときは、2階からのぞいたらいかんとか、
万が一、道にこどもが飛び出したりしたら、きつう罰せられるとか、
そらあ大変なきびしいもんでした。。。
(ひええ、昭和40年代でも、そんなんやったんやろか?)
国民宿舎に、ミニ動物園や鯉の池がありましたけど、その時のものかなー?
運:あんたら若いひとにはわからへんやろけど、皇太子さんゆうたら
たいしたもんで、年寄りの中には、拝んどるもんもおりました。
(おばさんはそうそうとうなづいている。)
(ガイドさんとぼくはふーんそんなもんかいなー?といった感じ)
(またまた2極構造になった。 )
(おばさんが運転手にとしを聞いたりしている。)
運:それで後日談がありまして。。
壱岐に皇太子さんが来られたあと、次の年、五島に天皇陛下さんが
行かれたんですわ。
それで、対馬のもんが怒って、そのときの知事が佐藤いいよりましたが、
選挙でボイコットしたもんで、落ちまして。。。
とばっちりですなー。
運:まだその頃は対馬は、不安定やゆうことで、外されたんですな。
なんで、わしらとこだけけーへんねん待ってるのに。。ちゅうことですな。
運:こないだの国体のときに対馬も寄られたんで、よかったです。
皇族とか大臣が来ると、突貫工事で道路整備をする。
木っ端役人のド根性がおもしろい。
まあ、壱岐のひとびとにとっては、なにはともあれ
社会資本(インフラ)の整備になるわけでいいのだが。。
それで、全島ほとんど舗装されているわけだ。。。
それでまた、昭和40年代の雰囲気が壱岐に残っているのかな?
最盛期の粧いを町は忘れないのだろう。(ひともかな?)
鬼の岩屋
とかなんとか話しているうちに、壱岐のほぼ中心部にある、
<鬼の岩屋>に着いた。湯ノ本と芦辺のほぼ中間である。
<鬼の岩屋>というのは、
壱岐で最も大きい円墳で、横穴から入ることができる。
落書きをする者がいるとかで、入口を入ってすぐの所に、
板状の岩が立ててあってとても入りにくくなっている。
ガイドさんが、スイッチを入れると、奥の石棺が置かれている場所に
灯りがついた。
発掘された時点で、すでに盗掘がひどく、遺骨も副葬品もなにも
残っていなかったと、ガイドさんの説明。
<では、行きましょうか>とあっさり言うガイドさんに、
<ぼく、こんなん好きですねん>と声をかけて、
板状の岩を乗り越えて、奥に入ってみる。
途中暗いところは、ガイドから借りた懐中電灯で足元を照らす。
きのうからの雨で、水たまりができているのだ。
奥は、すこし天井が高くなっていて、地下水が真上からポタリと
落ちている。
しばし、岩屋の中にいて、ゆっくり外に出た。
雨粒が少し大きくなったようだ。
円墳は壱岐全島で200ほどはあったようだが、
半数ほどはなくなってしまったそうだ。
鬼の岩屋の近くには、国分寺跡もあって、
このあたりが、島の宗教的中心でもあったことを
物語っている。
鬼の岩屋を後にして、東岸の芦辺に向かう。
芦辺からは、今朝がた壱岐バスで通ってきた同じ道を走る。
芦辺の入り江に、アーチ型の大きな船ともドックともつかぬものが
岸壁にひっついている。
ガイドさんにたずねると、
護岸壁をオートメーションで作っていく工事船なのだそうだ。
ブロックを船内で作っては、そのまま海に下ろし、その連続で
港湾などの岸壁ができあがるとか。。
芦辺の漁村を再び通り過ぎた。
乗客のおばさんの故郷でもある。
いま湾曲して走っている道路がむかしの海岸線で、
道路より海側は埋め立てられたらしい。
<この上の小学校に通ってましてね。。>と
おばさんは懐かしそうに話す。
現在は、埼玉に在住なのだそうだ。
壱岐には、小学校が20ほどもあって、けっこう多い。
高校は、郷ノ浦に普通科高校と、勝本に商業高校がある。
郷ノ浦ですれちがった女子高生は、壱岐高校の生徒だったのだ。
下宿している高校生もいるんですか?
運:いや、みんなバスか自転車通学ですよ。
バスの所要時間を計算してみれば、ふたつの高校のどちらに通うにせよ、
最大40分あればいいのだから、そのはずである。
学生時代の友人に、大阪府下の高校でありながら、自宅通学が時間的に無理で
高校のときから下宿していたのがいたのを思いだした。。
うーん、島だから下宿ということはないんだよな。。
妙に納得。
左京鼻
芦辺の漁村をすぎると、九州電力の壱岐火力発電所がある。
小学校くらいの敷地にこじんまりと建っているので、
ちょっと見には、変電所くらいにしか見えないほどだ。。
ただ、<重油>と書いた円筒形の燃料タンクが建っているので、
ああ、そうかとわかる。
運転手さんの説明では、
むかしは、ここしか発電所がなかったので、電気の時間制限があったらしい。
いまは、もうひとつ新壱岐発電所というのができたので、
電気が止まることはなくなった。
電話についても、以前は海底ケーブルだったので、
回線が少なく、<急行><普通>の区別があったとか。
<普通>で申し込むと、ときには、何時間も待たされることさえあったらしい。
現在は、マイクロウェーブなので、まったくそういうことはない。
そういや、むかしは、海外(本州から見て、淡路、四国とか九州など)と
電話しているときに聞こえる雑音のことを<波の音>なんどとふざけたっけ。
発電所をすぎると、海水浴場である清石浜(くよしはま)。
ここも2周目だ。
リゾート風に整備されたきれいな浜なのだが、
あいにくの雨で<だれもいない海>である。
芦辺から東へのびる岬が八幡半島である。
東西にのびる岬の上には、道路に沿って北風を防ぐ石垣が続いている。
石垣には、何箇所か集落へ入る通路がついていて、
北風がまっすぐには入ってこれないよう、途中で曲がっている。
岬の突端が左京鼻である。
海中にニョキッと2本指を突き出したような真っ黒な岩がある。
夫婦岩とも呼ばれている。
断崖の下は黒い玄武岩の磯が続いている。
砕ける波の白さがきれいだ。
岬の上は緑の草原で、これまた黒い壱岐牛が放牧されている。
バスを降りて、岬の突端までひとり歩く。
雨風が強い。
横風にかさを傾けて進む。
岬の突端、断崖絶壁の真上に出た。
さすがに、風が強いので、かさをたたまないと危ない。
傘の落下傘で断崖へ急降下なんてのは、ごめんだ。
突端からは、岬の南北両側がよく見える。
南側の断崖もまたすばらしい。
バスまで歩いて戻る途中、釣竿を抱えたカッパを着たおじさんと
すれちがった。
<なにか釣れますか?>とたずねると、
<きょうはだめです。>とあきらめた返事が返ってきた。
バスに戻ると、ガイドさんが、
<岬の突端まで行かれましたか?>
<その日の風向き次第で、八幡の海女さんたち、岬の北側で仕事したり、
南側で仕事したりするんですよ。。>と、説明してくれた。
腹ほげ地蔵
八幡半島の南側にある<八幡浦>は海女の多い集落である。
およそ100人ほどの海女さんがいるとか。
主に、ウニ、アワビ、サザエ等を採っている。
だが、高齢化の波は海女の世界にも押し寄せているようだ。
運転手さんの話では、
暖かい時期なら、25メートルくらいは潜るそうで、
もちろん、素潜りである。
熟練の技と、驚異的な肺活量もあるのだろう。
でも、25メートルの水深から急浮上してだいじょうぶなのかなあ?。。
ダイビングの場合だと、減圧しながら浮上するらしいのだが。。。
さて、八幡浦の浜辺に<腹ほげ地蔵>というのがあって、
定期観光バスコースにも入っている。
昔は、集落の入口にあった地蔵さんだったが、いつのころか
浜辺の波打ち際に置かれるようになり、
漁港の工事のため、陸に再び上げられたのだが、
夢のお告げかなにかで、またまた海辺に戻されたのだそうだ。
今は、護岸壁のすぐ外に1畳ほどのプラットフォームのようなもの
ができていて、その上に、小さな地蔵さんが6体横に並んでいる。
いわゆる<六地蔵>である。
赤いよだれかけをしているので、見えないが、
胸のあたりに、500円玉くらいの大きさの穴がぽこりとあいている。
背中まで貫通はしていない。
赤いよだれかけをめくってみると、穴の中に、何枚か硬貨が供えられていた。
満潮にもなると、プラットフォームは水面下に沈み、
地蔵も背丈の半分くらいは水に沈む。
ぼくが行ったときは、干潮時だったので、水面上にあった。
なぜ、こんな穴があいているのだろう。
海女さんたちの安全を祈願したのだろうか?
それとも海で亡くなったひとたちへの想いを込めたのだろうか?
水死体は、魚に食われて穴があいているものとも言うが。。。
ほげる=穴があく。九州の方言らしいが、関西でも通る。
なんだか<腹ほげ>ということばの直説的なひびきに
不気味なものを感じてならなかった。
だが、村の人たちは、屈託がない。
<はらほげ食堂>なる看板があがっているのを見て、
そんな感傷などどこかへふっとんでしまった。
<腹ぺこ>くらいのニュアンスなのかもしれない。
註。腹ほげ地蔵の穴ですが、
海水により自然にあいた穴ではありません。
明らかに人の手によってあけられたものでした。
ぼくも、現物を見るまでは、海水の侵食で穴があいたのかなー?
なんて思っていたのですが、ちがいました。
海水説の方がありがたみもあっておもしろいのですが。。。
安国寺にて
八幡半島の南側には、もうひとつの発電所<新壱岐発電所>がある。
無人島だった<青島>を九州電力と町で買い取って、
島の半分は発電所、半分は町のレクリエーション施設にしたとか。
島へ渡る立派な橋がかけられている。
バスは山あい(というより、丘あいか?)に入る。
次のポイントは安国寺である。
安国寺は、足利尊氏が南北朝の争乱に倒れたひとたちの菩提を弔うため、
全国六十余州に建てさせた寺で、もちろん、壱岐や対馬も<国>だったから、
国分寺もあったし、安国寺も建てられたのである。。
尊氏は、皇国史観においては、ずいぶん逆賊扱いされていたが、
なかなか魅力的な男だったようだ。
戦いに負けても、すぐに立ち直って、逆についてくる人間が増えたという。
これでは、とても後醍醐天皇は勝てない。
結局は、後醍醐は手駒をどんどん減らし、尊氏は圧勝することになる。
このあたり、尊氏は<成功した西郷隆盛>といえるのかもしれない。
同じように、九州から反攻に出ながら、尊氏は成功し、西郷は失敗した。
敗者の側の<たたり>を恐れた勝者は、全国に安国寺を建立し、
平和を祈願したのだろう。
安国寺恵瓊(えけい)のことを思いだした。
戦国時代、毛利氏の外交僧で、のち、秀吉に仕え、
大名にまで出世した。そこでやめときゃいいのに、
最後は関ケ原の戦いで敗れて、石田三成、小西行長とともに
京都で処刑されるという数奇な運命を辿った。。。
恵瓊は安芸の国の安国寺の坊主だったのだ。
<安国寺>。。。<安国神社>。。。<靖国神社>。。
なんて連想が思いつく。
そういえば、招魂社(護国神社)も全国にあるようだ。
大きな老杉の茂る、壱岐の安国寺の庭にたっていると、
時代を忘れてしまいそうだ。
雨がひどく降り出した。
臨済禅の古刹は、雨と緑の中にある。
海水浴場
安国寺を出た。
バスのワイパーの動きが激しくなる。
あのトウモロコシみたいなのはなんですか?
ガ:<ええ、あれがタバコですよ。>
壱岐の主要農産物としては、米、麦、たばこ、。なのだ。
運:<いちごはもう終わったの?>
ガ:<ええ、いまはアムスメロンを出してます。。。>
ガイドさんはどうも農家の出身らしく、農産物にはやたら詳しい。
運:<メロン4つ入りの、うまかったなあー。。。>
ガ:<ええ、あれほんとに安いですよ。でも、今年から、送料別にとるように
なったそうですよ。。。>
と、このあたり、延々と果物談義が乗員2名の間で続く。
乗客はよだれをたらして聞いている。
大きな田圃が広がっているところに出た。
ガイドさんの説明では、長崎県(壱岐は長崎県なのです。)でも
1、2を争う大規模な田圃とか。。
おそらく、遠浅の入り江を干拓してできた農地のようだ。
浜辺に出た。
このあたり、壱岐でも有数の海水浴場地帯である。
まずは、筒城浜(つつきはま)。
白い砂浜に、底まですっきり見えるきれいな海だ。。
バスを降りて、しばし、砂浜を歩く。
雨が小降りだ。
少し南に、大浜、錦浜と、海水浴場がつづく。
すれちがいのできない1車線の道が多いから、
対向車があれば、そのたびどちらかが道を譲り合う。
壱岐には何台くらい車があるんですか?
運:<2万台といわれてますが。。>
ガ:<人口が4万人で車が2万台です。。
車の普及率の高い島なんですよ。>
おばさんが、昔と比べて、そんなに人口減ってないみたいねと、つぶやく。
2万台も車がある割には、めったに対向車が来ない。
交通機関がバスかタクシーしかないから、一応は車は所有するけど、
使用率が低いということだろうか?
それとも、そんなに島の中走ってもしかたがない、というところだろうか?
考えてみれば、通過車両というものがあまりないから、
無駄な動きがないのかもしれない。
運:<この道を左に行ったら、すぐ空港です。>
道の行き止まりに小さな駅のような建物が見える
きょう泊まる民宿は空港からも近いと書いてたので、もうまもなくである。
ガ:<近くで止めますので、どこの民宿ですか?>
それそれ、<近い>で思いだした。千賀荘ですよ。
ガ:< それなら、もうすこし行ったところです。>
観光案内に載っていた民宿の案内看板がいくつか道路脇に見えだした。
もうすぐらしい。
ガ:<はい、着きました。ここです。>
運:<あの道の向こうに赤い車が見えるところ。。。あれがそうです。>
と、指さしてくれる。
ガ:<どうもお疲れさまでした。>
運転手さん、ガイドさん、そして、おばさんに別れのあいさつをしてバスを降りる。
ふりかえって、ゆっくりと動きだしたバスに手をふった。
降りたところから、50メートルほどだろうか。
きょうの宿となる、千賀荘がたしかにあった。
旅の宿
玄関に立って、<こんにちわー>と叫ぶ。
けっこう大きな民宿のようだ。
観光案内には、千賀荘 15室 80名。とある。
年齢不詳のおねえさんが出てきた。
というのは、若そうな感じなのに、笑うと金歯が見えたから。。
昼ごろ、郷ノ浦から電話しました、神戸の。。。です。
定期観光バスがすぐ近くまで送ってくれたんで、直接きました。
と、仁義をきる。
部屋に早速案内された。
お茶とお菓子をおねーさんが持ってきた。
部屋は海に面した、見晴らしのよい12畳の部屋である。
床の間もついていて、なかなか広い。
波の音がよく聞こえる。
うーん、民宿案内所の<推薦>どおり、ぼくの条件通りだ。
トイレは部屋にないので、長い廊下を歩く。
どうやら、いまのところ、泊まり客はぼくひとりのようだ。
民宿は、海に突き出た、小さな岬の上に建っている。
窓から眺めると、右手には、プライベートビーチのような
幅50メートルほどのきれいな浜辺がある。
その向こうには、小さな磯を経て、大きな浜辺がずーーと向こうまで
広がっている。ここが錦浜なのだ。
さて、左手にも小さな入り江と浜辺がある。
入り江をへだてて、ほんの至近距離に、壱岐空港の南端が見えている。
それこそ、滑走路に立っている人がいたなら、じゃんけんでもできるくらいの
距離である。
眺めよし、浜に近し、あとは、料理だけ! だ。
まだ時間が早いので、先に風呂に入ることにする。
長い廊下を歩いて、突き当りが風呂だ。
船を埋め込んだ豪快な浴槽に驚く。
海に向かって2面ガラス張りになっていて、
お湯につかりながら、海を眺めることができる。
もちろん、滑走路もだ。
文字どおりの<湯舟>は、2槽に分かれていて、
へさきの方が熱い。
仕切り板は、下はつうつうになっている。
これはなかなかいい工夫である。
足だけ熱い方に突き出して、あったまるということもできる。
また、片方に入ると余った湯がもう片方に流れ込むので、
自然に湯加減ができるという案配になっているのだ。
<こらあ、飛行機が飛んできたら、丸見えやなあー>と、思いつつ、
待っていた?が、ついに飛んでこなかった。
修学旅行
風呂から部屋に戻る途中の廊下の壁に、色紙が何枚か張ってある。
まん中に丸を描いた寄書きのようだ。
大阪府立泉尾高校とか、池田高校、四条畷高校。。。などの名前が読める。
修学旅行の宿泊記念に宿に残していったものらしい。
3泊4日くらいの日程らしく、
高校生たちの楽しそうな感謝のMSGが書き連ねられている。
そういえば、定期観光バスの中でも、運転手さんとガイドさんが
修学旅行のことを話してたっけ。。。
運:夏場は海水浴ですが、秋には、修学旅行の高校生が来ますよ。
へえー、最近は修学旅行もおもしろくなってきましたねー。
運:サイクリングとか地曳網の体験やったりするとです。
いつごろから修学旅行が来るようになったんですか?
運:10年くらい前が最初だったかなー。
それから、だんだん、学校数が増えて。。。
ガ:商業高校の修学旅行は韓国だったらしいですよ。。
(勝本の壱岐商業高校のことである。)
公立高校で修学旅行が海外とはすごいなあ!。。と思ったが、
でも、壱岐からだと、ほんと、対馬の次は釜山だから、
距離的には、なんということはないのだろう。
船をチャーターして行くのだろうか?
それとも、福岡空港から飛行機かな?
運:サイクリングの大会なんかも毎年開かれるとです。
そん時は、コースは一時通行止めになります。
けっこう自転車は速いし、島の道は狭いですから。。。
ほんと、バスで回っていると、こんな道を自転車で走ったら、
きっと気持ちがいいだろうなーー、と思う場所だらけだった。。。
なにしろ、全島舗装されていて、アップダウンがきつくなく、
緑が多くて、眺めがすばらしくいいのだから。。
まるで、サイクリングのためにあるような島なのだ。。
浜に出てみれば
風呂は入ったし、夕食にはまだ時間があるので、
ちょっこし浜に出てみることにする。
右手を広げてください。
親指に当たるのが壱岐空港の滑走路南端。
人差指が民宿の建っている小さな岬。
中指が海に突き出た磯。
薬指が大きな浜のまん中あたりの磯。
小指が大きな浜のはるか向こうの岬。
指と指の間は、砂浜。。。
ということになります。
まずは、親指と人差し指の間の砂浜に降りてみる。
民宿からほんの50メートルほど下ったところである。
幅せいぜい50メートルほどの小さな砂浜がひろがっている。
滑走路には入れないようにフェンスで囲ってある。
親指の先には、航空燈台だろうか、小さな燈台が立っている。
民宿がのっかっている小さな岬の磯を乗り越えて、
人差し指と中指の間の砂浜に入った。
きれいな白い砂と、コバルトブルーの透き通った海。
プライベートビーチのような可愛い砂浜に
ぼくの足跡と、傘をひきずった跡だけが残っている。
貝を拾ってみようと思ったが、貝殻も見あたらないほど、
きれいな砂ばかりの浜である。
中指の磯を乗り越える。
この磯はちょっと大きくて高い。
傘をピッケルがわりに進む。
大きな広い浜に出た。
干潮なのだろうか、波うち際から10メートルは離れた場所に
50cmほどの砂の段差が続いている。
波うち際をかさをひきずりながら、ぶらぶらと散歩する。
<薬指の>磯まで来た。。
平たい磯なので、いくつもタイドプール(潮だまり)ができている。
水族館なんかにいくと、タイドプールの模型なんかがあるが、
まさしく、海と陸の接点である。
潮だまりには、小さな魚や巻貝などがうようよしている。
手ですくってしばし遊んでみる。
むかし、隠岐のユースホステルに泊まったとき、
こんな巻貝が味噌汁の中に入っていたっけ。
あれはうまかった。
とくに、カメノテは絶品だった。
すこし離れた潮だまりで、なかよくしゃがみこんでいる
老夫婦に気がついた。
離れているので、はっきりとはわからないのだが、
白い小さな丸いものが潮だまりの中に浮き沈みしている。
すぐ横にはざるのようなものがある。
<なんかとれますか?>とたずねてみたら、
なんと、白く見えたのは、<らっきょう>だった。
壱岐が農業の島であることをすっかり忘れてしまっていた。
浜辺ちかくの畑にできたらっきょうをタイドプールで
洗っていたのであった。
さて、そろそろ引き返そう。
帰りは、波うち際でなく、段差のある上の方を歩いて帰る。。
ほぼ垂直に切り立ったような50cmほどの段差だが、
あまり端の方を踏むと、ドサっとくずれおちる。
くずれおちない範囲で踏んで通るのがおもしろい。
それでも、たまには砂ごと落っこちそうになったりする。
てな感じで、宿に戻ってみると、
夕食の支度ができていた。
ひらめの間
部屋には、トイレがない、電話がない。(民宿や、当り前やろ。)
ので、長い廊下を何度も往復するうちに、部屋の入口に、
<OOの間>という札がかかっているのに気がついた。
で、隣の部屋が<ひらめの間>だった。
もちろん、空室である。
ぼくの部屋は?と、見ると、
<日の出の間>だった。
なんか統一性のない名付け方ではある。
他の部屋の名前は忘れてしまった。
さて、浜の散歩から戻ってみると、
日の出の間には、夕食の準備ができていた。
うう、おー。豪華版!
テーブルの上に一面、何品あるのだろう、
料理がずらーっと並べられている。
さざえの刺身。タイの刺身。さざえの壷焼き。焼き魚。煮魚。もずく。味噌汁。
佃煮。サラダ。そうそうなぜかキムチ。。。
どれもうまかったが、とりわけ、さざえの刺身がコリコリあっさりしていて
気にいった。
全部たいらげると、おなかがパンパンになって、しばらく動けなくなった。
畳の上に、ゴロリ寝転んで波の音を聞いていた。
ようやく動けるようになって、もいちど風呂に入りに行った。
湯舟から海を眺めると、水平線にずらーっとイカ釣り船の灯りが連なっている。
あの、遠くから眺めていてもまぶしすぎる集魚灯の下で、
男たちが海と格闘しているのだろう。
風呂から戻ると、ふとんが敷かれていた。
部屋の窓からも、イカ釣り舟の灯りが見える。
部屋の電気を消すと、眼下の海のきらめきが見える。
航空燈台の光線が、まるで間欠ワイパーのように
頬を撫でていく。
波の音を聞いていると、なぜなつかしい思いがするのだろう。。
もしもあしたが晴れならば。。
朝、目がさめると、雨の音がする。
あちゃ、きょうもまた雨か。
ぼくは割と晴れ男なのだが、この日程をきめた野郎が雨男なのだろう。
きのうの夜、敷きぶとんの上に寝そべって、JR時刻表(大きな方)を
眠り薬がわりに読んでいた。
旅行のときは、時刻表というのは実用的であるのはもちろんだが、
読物としてもけっこういけるので、重たいけど持って行くだけの
価値はある。。
非常時には、ティッシュペーパーのかわりにもなる。
もし晴れならば、(いや、せめて雨もようでなければ。。)
きょうは、郷の浦までバスで出て、
レンタサイクル借りて牧崎の<鬼の足跡>(大きな海蝕洞)へ行って、
それから、壱岐の離島である3島(大島、長島、原島)へ、
郷の浦町営の連絡船で渡ってみようと思っていた。
が、この雨で断念。どうしようか?
例のごとく、離れのトイレに向かうべく、長い廊下をバタバタ歩いていると、
宿のおかみさんが
<すみません、寝すごしたもんで。。すぐ朝ごはんつくります。。>
と、起きぬけの顔で現れた。
そいじゃ、その間に、とりあえず朝風呂に入ることにする。
これで、きのうから通算して3度目である。
さすがにきのうからの雨のせいか、
あまがえるが1匹、風呂場の先客としてガラス窓にひっついている。。
湯船につかって、海を眺める。
滑走路との間の小さな入り江に、小さな舟が浮かんでいる。
黒いダイバー姿の海女さんがふたり、磯の近くで雨の中潜っている。
どうせ濡れるのだから、雨は関係ないのだろう。
ただし、舟には、雨よけのためだろうか、テント張りになっている。
海女の実演?を見ながらの風呂というのもなかなかの風情でいいのだが、
困ったことに、風呂から上がるとちとヤバイ状況でもある。
こっちからよく見えるということは。。。向こうからも。。
海女さんがふたりとも潜るタイミングをとらえねばならない。
でないと、今度は、こっちがそれこそ<実演>になってしまうではないか。
まあ、彼女たちにしてみれば、さざえやあわびに夢中だから
眼中になしというところだろうが。。。
半分のぼせながら、部屋に戻ると、朝食の準備ができていた。
風呂あがりのメシはうまい。
さて、きょうの予定はどうするか?
目の前に滑走路があるのに、帰りも船というのも芸がないし。。
しかし、飛行機、きょうは飛んでるのだろうか?
きのう、郷の浦のバスターミナルで、観光客ふうのおじさんが、
<きょうは飛ばんのか?>と、ぶつぶつ文句を言ってたようだし。。
壱岐空港はちょっと視界が悪いと、有視界飛行のYS11は
欠航になるようだ。
とりあえずは、9時50分着のYS11が飛んでくるかどうかを
見ればいい。
ところで、なぜ急に飛行機にしようか、なんて考えたのは、
他でもない、けっこう安いからだ。
それに、プロペラだとなんとなく安心感がある。
壱岐ー福岡で、
飛行機の場合、料金5210円。所要時間30分。
高速艇だと、 料金4020円。所要時間90分。
わずか1000円ちょっとしか違わない。
所要時間が短いから、少しでも長く壱岐におれる。
だが、、、
今回はよっぽど飛行機に縁がないのか、
福岡からのヒコーキは10時をすぎてもついに飛んでこなかった。
おーーっと、また命拾いしたようだ。。
印通寺の港
飛行機が飛んでこないのを確かめて、
結局、印通寺(いんどうじ)からフェリーに乗ることにした。
ここからは、九州が一番近い。
印通寺から呼子までは、1時間5分である。
そうそう、面白いことに、壱岐唯一の幹線道路?である国道382号線は、
この印通寺を起点として、郷の浦を経て、勝本まで続いている。が、
そこで終わらず、いきなり対馬海峡を飛び越えて、
対馬の厳原から、北端の比田勝で終点となる。
海のハイウェイなのだ。
壱岐から対馬へは、郷の浦からしか船便はない。
勝本から厳原へはフェリーはないから、ちょっとおかしい感じがするのだが。。
印通寺の港に向かうべく、民宿のおかみさんに、
バスの時間をたずねたら、
<送っていきますよ>とのことで、(甘い期待通り?)
息子さんの運転する黒のセドリックで豪華に船着き場へと
向かう。
10:50の船には、十分に間に合った。
すぐに乗船してもよいのだが、しばらく待合室をうろつく。
特産の麦焼酎などがみやげものの店に並べられている。
<壱岐っ娘>(いきっこ)というのが最近人気があるらしい。
ラベルの女の子が卑弥呼みたいで可愛い。
<不審な人物をみかけたら。。。>のポスターが貼ってあるのに、
気がついた。
でも、<機雷>の図解ポスターまで貼ってあった対馬に
較べればのんびりした感じではある。
もうひとつ張紙がしてあった。
<国立病院の存続を!>といった内容の訴えで、
どうも壱岐の国立病院が廃止か移管されるのに反対しているようだ。
定期観光バスの運転手さんが<砲台>の話をしてくれた時に出てきた、
軍医さんが院長をしていた病院なのかもしれない。
対馬にも国立病院があった。
現代版<国分寺、安国寺>は、さしずめ、国立病院なのだろうか?
出航10分前になった。
ぼちぼち船に乗り込むことにしよう。
上甲板のベンチに座ろうとしたら、どの椅子もみな濡れている。
ちっとはましなのを見つけて、座ることにした。
船が動き出した。
島を発つときゃ、目に涙。である。
印通寺港外の妻が島を左手に見て、船は壱岐を離れていく。
呼子までの26kmの船旅がはじまった。
また来るぞ。壱岐よさらば。
本屋めぐり
7月14日だったと思う。
散髪しに元町の行きつけの店まで出たついでに、
元町商店街をぶらぶらと東へ歩いた。
元町の商店街というのは、東西およそ1kmは優にある長ーい商店街
なのである。
いまは、新興の三宮なんどに繁栄を奪われてはいるが、
立派な老舗の多い、ぶらぶら見て歩きには、もってこいの街なのだ。
(それだけ人混みが少ないということなのだが。。)
元町の商店街の中で大きな書店といえば、西から
宝文館、海文堂、丸善。ということになる。
中でも、海文堂はその名の通り、海事関係の書籍が豊富で、
国土地理院の地形図はもちろん、海図なんかも置いてあるという
立派な店である。
旅行ガイドブックなんかのコーナーにも、やたら多くの本が並んでいる。
ところが、壱岐は、長崎とか平戸あたりのガイドブックの1項目くらいにしか
扱われていない。
それも、壱岐についてはせいぜい2ページがいいところ。
なるほど、こんなもんなんだ。
芦辺港の待合所でもらった壱岐の観光案内がはるかに詳しい。
もし、壱岐に興味を持たれたなら、
この観光案内を送ってもらうといいだろう。
下手なガイドブックなんか買う必要はない。
観光案内の裏表紙には、ちゃんと、
--------------------------------------------
壱岐観光のお問い合わせは
(壱岐) 壱岐観光協会
TEL。(09204)7ー3700
長崎県壱岐郡郷ノ浦町築町42
・・・・
--------------------------------------------
とあるから。。。遠慮はいらない。
さて、海文堂の2Fで、5万分の1の地形図(勝本)を買った。
もちろん、<壱岐>の地形図である。
ついでに、2万5千分の1集成図(京都)も、地図のきれいさに惚れて買う。
昔のデートコースだから、ノスタルジアにひたるのもいいだろう。
なんか壱岐についての本ないかなー?と店内をうろつくうち、
はっと思いだした。
たしか、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」シリーズがあったはずだ。
シリーズ13巻目に、「壱岐・対馬の道」というのがあった。
嬉しい。
このシリーズの最初の方だったかに、韓国紀行があったと思う。
たしか8巻目くらいまでは、買って読んだ記憶があるのだ。
で、読書感想文は次回にします。
地形図を見て。。
5万分の1地形図(勝本)を飽かず眺めている。
壱岐は丸い島だと書いたが、すこーし南北に長い。
岬や入り江もあって、<欠けた丸ノコ>といった方が正しいだろう。
よくよく見ると、最初から丸かったのではなく、
突出した岬だったところが、切り離されて、離れ小島になったり、
逆に、湾入していた入り江が川の運んでくる土砂で自然に埋まってしまったり、
あるいは人工的に干拓されたり、、、で
カドがとれて丸くなったような感がある。
勝本や郷ノ浦の港外にある小島は、たぶん、昔、岬だったのだが、
波の侵食で切り離されたできたものだろうし、
大規模なたんぼが広がる平野は、昔のきんちゃく状の入り江が干されて
できたようだ。
島も人も年を経るとまるくなるのかもしれない。
もうひとつ、気がついたのは、
農村地帯に見られる<触>(ふれ)という集落単位である。
これについての説明は、「街道をゆく 13」にあるのだが、
簡単に紹介すると、
<触>は、壱岐独特の集落単位の呼称で、
通常の<字>(あざ)に当たる。
江戸期には、99の<触>があった。
ひとつの<触>はだいたい60軒くらいの百姓で構成され、
百姓頭(さすがしら)がいた。
<触>が3つ4つ集まって<在>(ざい)を構成し、
<在>には、庄屋がいて、藩からの<おふれ>を百姓頭に下達する。
百姓頭は、それを<触>中にフレまわるという仕組みになっていた。
こういった直接的な表現をそのまま単位名にしてしまっているところが
なんともいえずおもしろい。
「街道をゆく」を読む
司馬遼太郎氏の「街道をゆく 13 壱岐・対馬のみち」 朝日文庫
を読んでみた。
<「週刊朝日」1978年2月3日号ー同年8月25日号に掲載>
とある。
もう10年は優に前の紀行なのだが、読んでみて、
ほとんどまったく違和感のないのに気づいた。
つまり、壱岐は10余年前とほぼ変わってはいないようだ。
もうひとつ。この本を買った翌日だった。
「街道をゆく」シリーズのさし絵を描かれていた須田剋太さんが亡くなった。
新聞の記事を見て、なにか暗合のような出会いを感じた。
「壱岐・対馬のみち」自体、司馬遼太郎氏の旧友(対馬出身)の死が、
旅立ちのきっかけとなっているのだ。
さて、以下、「壱岐・対馬のみち」を読んで得た感想である。
「 」内は、本からの抜き書きである。 ・・・は中略である。
<壱岐の卜部>
-------------
「大宝律令制定(701年)のとき、神祇官の職掌名として<卜部>という
者が20人置かれることになった。壱岐から5人、対馬から10人、そして
伊豆から5人という割で、卜術のすぐれた者が都によばれ、吏員になった。」
つまり、日本神道の<技官>の4分の3は壱岐・対馬出身であり、
その背景には、もちろん、朝鮮半島からの卜占技術の流れがある。
<平戸松浦藩の支配と地割りの制度>
----------------------------------
「平戸藩には上代の律令制的な意味での土地公有の思想があった。
・・・
10年ごとに、トランプをくばりなおすように、村内の土地が
割り替えられたのである。
・・・
この名残として、壱岐の農村はいわゆる散村をなしている。
・・・
このために野がひどく広やかにみえる。」
班田収授が江戸期に実存していたわけで、
これは壱岐の地理的条件にも原因があるのだろう。
平たい島で平野部が多いから、平均的に等価な田畑が多いからか。
<平戸藩主の「御教法」>
-------------------------
農民の暮しに対する指図であるが、
「城下のある平戸島の場合、・・・
壱岐にくらべればやや贅沢(ともいえないが)をゆるしている。
壱岐百姓の場合、無用の寄合や飲み食いをいっさいせず、ただただ働け
ということであろう。」
「18世紀ごろの壱岐島の米の穫れ高は2万491石だったという数字がある。
人口3万4千余で、町民は加えていない。
平戸松浦藩の表高は6万1千石である。」
優に石高の3分の1が壱岐なわけでまさに、藩にとっての米蔵的存在だったろう。
海賊連合?の松浦党がそのまま大名になって、平戸藩をつくったので、
頭目たちがそれぞれ、藩の重職についたようだ。
壱岐は、<国>である。それが、平戸<島>に支配され、かつ
搾取されていたというのは、島の気風のせいかもしれない。
タクシーの運転手さんの、<あらいことは、ようしよりません>
という言葉が思い出された。
現在、壱岐から九州への船は、博多航路か呼子航路で、平戸への船便が
存在しないのは、藩政時代への<うらみ>のためかもしれない。
<なぜ、貧富の差ができるのか>
------------------------------
「明治初年に最後の地割りをし、すべての農家に農地の永久所有権が
みとめられるのである。
この明治初年の段階では、農村の富はまったく均等化していた。
その後ほどなく貧富の差がでてくる。」
「没落してゆく原因としては何がいちばん多いでしょう、と目良翁にきくと、
「一家に病人が出ると、いけないんでやすねえ」
ゆっくりといった。 」
健康保険などの社会保障がある現在でも、病人が出ると、
家はなにがしかは傾く。
働き手を失うと同時に、高い医療費の出費で、ダブルパンチをくらうのである。
母は、よく、<どろぼうは家までもっていかへんけど、火事はこわい>と
火の用心をしていた。
火事も没落のおおきな原因であったろう。
<壱岐と対馬>
--------------
「壱岐人と対馬人は、仲がよくない。あるいは口先だけの楽しみとして
やっているのかもしれないが、互いに相手の悪口を言いあう。」
「壱岐の宿で、・・・、係の中年の女中さんが、・・・
「私ゃ、対州へは行ったことがありまっせん。べつに行きたかとも思いまっせん」
といった。・・・彼女はさらに、
「対州は貧しかですたい。貧しかなら貧しかごとやればよかばってん、厳原は
あんな小さな町なのにバーが7、80軒もあるとですよ。」
といった。」
「・・・基層文化が、農が濃いか、漁が濃いか・・・」
といった、ちがいのせいかもしれない。
雑談の折り、ぼくが対馬へも行ったことがあるのを話したら、
定期観光バスの運転手さんがどことなく冷淡な反応だったことを
思いだした。
また、皇太子が壱岐へ、天皇が五島へ来島したのに、
<対馬は治安が不安定だったから見送りになった。。
それで、対馬の人間が当時の県知事をボイコットしたので、落選した。。>
といったあたりも、考えてみると、そういった感情があったのかもしれない?
と、いま改めて思う。
しかし、壱岐のひとたちの対馬への<悪口>には、ユーモアがあって
可愛い。
逆に、対馬のホテルの仲居さんは、
「「壱州のひとはね」・・・「ずるかですよ」
日本のどの土地の漁村でも、農村の連中はずるい、という。
実際はずるいというより物の言い方もやり方も直接的でなく、
それが農村の文化といえるのだが、他からみればずるいように見えるのである。」
「もっとも壱州の人たちは私ら対州モンをバカだといいますけれどね」
というと、のどちんこが見えるほどに口を大きくあけて笑った。
女の人がこれほど痛快に笑うのを、私はひさしぶりでみた。
彼女は、・・・、ずるいといわれるよりバカとよばれるほうが
よっぽどよかですよ、と言い添えた。」
これまた豪快な悪口で、気持ちよか。
呼子から唐津
呼子に着いた。
船を降りると、唐津行きのバスが待っている。
今度は、乗り遅れないように、さっさと乗り込んだ。
唐津までは、バスで1時間ほどである。
呼子港を出たバスは、まもなく、呼子の町のバスターミナルに入った。
ここからは、朝鮮の役の際、本営となった名護屋城跡も近い。
バス待合室の窓に、観光船の案内が出ている。
<日本で最初の観光船>とかで、七ツ釜とかの海蝕洞などを
グラスボートで案内してくれるらしい。
ちょっと、興味をそそられたが、迷ってるうちに、
バスは、回転台の上に乗ったかと思うと、くるりと台ごと180度回転して
出発してしまった。
せまいバスターミナルなので、なかなかのアイデアである。
名護屋の西に、鷹島があるが、蒙古襲来のときには、
この島は、元軍によって占領されている。
朝鮮の役では、逆に、日本の軍船が仮屋湾をうずめつくしたことだろう。
名護屋ー壱岐ー対馬ー釜山のラインは、海峡の両岸いずれにとっても、
軍事的動線であったのだ。
さて、バスは、呼子から西の名護屋方面とは逆に東へ向かう。
乗客のおばさんは、壱岐から唐津の赤十字病院へ通院しているらしい。
海が荒れそうなので、早いフェリーで壱岐へ戻る、とか話している。
病院通いも大変だ。
西唐津の駅前をすぎた。
しばらく、JRと並走する。
唐津大手口終点。
小さな石垣と濠があって、役所らしき建物が中にたっている。
駐車場の整理をしているらしきおじさんに、
<ここが唐津城跡ですか?>とたずねた。
<いえ、唐津の城は、町のはずれ、もっと海の方です。>と、
親切に教えてくれた。
<歩いていけますか?>とたずねると、
<遠いですよ>と答えがかえってきた。
よかった、こんなのが城跡だったら、どうしようかと、思っていた。
唐津駅は、大手口からまっ正面200メートルくらいのところである。
まずは、駅に向かう。
唐津の観光案内をもらうのが目的である。
市内地図入りの<からつ案内>をもらって、ぶらぶら駅前の商店街を歩く。
唐津焼の店、行商の魚売りなどを見てあるく。
地図で見ると、さきほどの大手口の建物は、市役所だった。
大手口を通り過ぎ、北の方向、海の方へ向かう。
このあたり、大手口という名前の通り、もう昔の城内である。
地名にも、西城内、南城内、北城内、東城内、大名小路などがある。
逆に、大手口より南側の地区は、町人の町だったのだろう。
八百屋町、米屋町、呉服町、紺屋町、刀町、木綿町、魚屋町、、等の
そのものずばりの町名が並んでいる。
さきほど通ってきた商店街は、呉服町、紺屋町のあたりである。
唐津駅は、むろん、町人地区にある。
唐津くんち曳山
さて、西城内にある、曳山展示場にやってきた。
唐津神社の横、市民会館に<唐津くんちの曳山(やま)>が展示されている。
展示場内は、完全空調、かつガラス張りになっている。
曳山を初めて見たが、すばらしいものである。
実にきれいというか、曳山の町内のひとたちが、誇りに思うのは、
当然である。
もし、ぼくの町内にこんな曳山があったら、絶対に、大事にするだろう。
「<一閑張り>と呼ばれる工法によるこの曳山は、木組み・粘土の原型や
木型の上に和紙を数百回張り重ね、麻布を張り、幾種類もの漆で塗り上げ、
金銀を施して仕上げたもので、完成までには2年前後の年月を要したと
伝えられています。」 (曳山展示場のパンフより)
曳山は、全部で14番山まである。
曳山の中には、現在修理中とかで空席になっているところや、
出張中のところもある。
1番山は、赤獅子、刀町、文政2年(1819年)作。
獅子舞に出て来るあの獅子頭のどでかいものである。
これが曳山の中では、もっとも古い。
2番山は、青獅子。中町。
3番。亀と浦島太郎。材木町。
4番。源義経の兜。
5番。鯛。真っ赤なユーモラスな鯛そのもの。
6番。鳳凰。
7番。飛龍。
8番。金獅子。
9番。武田信玄の兜。
10番。上杉謙信の兜。
11番。酒呑童子と源頼光の兜。
12番。珠取獅子。
13番。鯱(しゃち)
14番。七宝丸。
曳山は、1番山がもっとも古く、番号順に若くなる。
もっとも新しいのは、14番山で、明治9年作になる。
重量は、2トンから4トンということで、ずいぶん大きく重いものである。
獅子が4山、兜が4山、魚類(龍、亀も含めて)が3山、船が2山。
という内訳になる。
もうひとつ黒獅子(紺屋町)があったのだが、明治中期に損滅して今はない。
また、なんとなく、町の特徴も曳山に出ているようで、
魚屋町が鯛、米屋町が酒呑童子、だったりするのは、おもしろい。
唐津くんちは11月2、3、4の3日にわたって行われる。
この<やま>たちが、練り歩くさまを見てみたいものである。
唐津城内
曳山展示場を出て、唐津城へ向かう。
このあたり、むかしの城内である。
侍屋敷のあとだろうか、広い敷地に和風の建物の
住宅街が続く。
いまはやりの新興住宅街のもつ、どこかしら無機質な
たたずまいではなく、日本古来の住み方の残る気持ちのよい一角である。
唐津城は、唐津の町の東を流れる松浦川の河口をふさぐかのような
突き出た岬(昔は、島だったにちがいない)の上にたつ。
海城である。
北は海、東は松浦川、南は町田川(唐津の町中を流れ、河口付近で松浦川と合流する)
西は、一の門堀という堀割で守られている。
城入口の陶製の江戸期の古地図を見れば、
松浦川河口に藩主の御座船以下、船を数十隻浮かべたさまが
描かれている。
海の交通を生かした、ゆたかな町であったろう。
唐津城の石段を登る。
天守閣直下の藩主邸は、今は、唐津東高校の校地となっていて、
高校生たちの声が聞こえてくる。
城主は、天守閣に住むわけではないのだ。
再建された天守閣のたつ段からは、海が見渡される。
北の海上には、星の王子さまに出てくるような<ぼうし>のかたちを
した島が浮かんでいる。
(ゾウを一呑みにしたヘビだったけ?)
河口付近に目をやると、東の方は、虹の松原が延々と続き、
白波が浜に打ち寄せている。
虹の松原へ突然行ってみたくなった。
唐津の3つ東の駅に、<虹の松原>駅がある。
唐津駅まで戻ることにした。
大名小路のあたりで、袋小路に入り込んでしまい、引き返す。
城下町の小路は、城の防衛のためか、まっすぐには進めないように
なっているが、このあたりもそうなのかもしれない。
懲りずに小路めぐりをしていると、またまた行き止まりかと
思いきや、突然、どこかの会社の駐車場に出てしまった。
どうやら、昔の武家屋敷跡をそっくり社屋+駐車場にしてしまったようで、
おかげで、袋小路から<脱出>できたということである。
そろそろ、おなかが減ってきた。
考えてみると、食い物屋がやけに少ない町ではある。
唐津城への行き帰りとも、食い物屋を見かけることがまれだった。
食い物屋が少ないほど、健全な町だとすれば、
唐津はなるほどそうである。
しかし、旅する者にとってはこれはちと困った。
駅前近くまで戻って、ようやく、たこ焼きの店を見つけた。
<たこ蔵>とある。
うなぎの寝床のように奥行きの深い細長い店だが、
外観も内装もなかなかにしゃれた店だ。
若い女性向けのあんみつカフェといった感じである。
とても場違いな私ではあったが、背に腹は代えられない?ので、
奥に入って、たこ焼きを注文する。
たこ蔵+うめ蔵セット400円というのがあったので、
なんかわからないが、注文してみたら、
<うめ蔵>というのは、梅ぼしがひとつ入っただけのプレーンな茶碗蒸しの
ことだった。だが、これがまたあっさりしてうまい。
大きなたこ焼きが3つ串ざしになったのが、4串ついたのが、次に来た。。
これが、<たこ蔵>である。
中辛ソースが塗ってある。これがまた、うまかった。
あまりうまかったので、もう1セット注文して、今度は激辛にしてもらう。
大きなたこ焼きを24個、茶碗蒸しを2杯食べると、さすがに
満腹に近く?なった。
店を出ると、もう雨はあがっていた。
虹の松原
唐津駅から、JRの筑肥線で東へ3つ目の駅が虹の松原駅である。
虹の松原の南端に沿ってJRは走っているので、
まるで高原の駅のような感がある。
駅前、即、松林の中なのだ。
無人駅になっていて、駅前の一軒茶屋のおばさんが<駅業務>を
代行している。
駅の南側は、線路1本へだてて、昔からの住宅が並んでいる。
待避線の跡?には、花壇がつくられている。
たぶん、茶店のおばさんの丹精なのだろう。
こんないい感じの駅はもう数少ない。
虹の松原は、元は、二里の松原だったらしい。
現在は、幅1km,長さ5kmの松原になっている。
両端は、人間に喰われたようだ。
虹の松原のどまん中を国道202号線が走っている。
駅前の道をまっすぐいくと、202号に直角にぶつかる。
T字型の交差点に、ユースホステルがある。
国民宿舎は、松原の西のはずれにある。
国道を渡って、なお、浜に向かって、松林の中を直進すると、
防風、防砂のための、竹の柵があって、ところどころ、出入り口があいている。
そこを抜けると、海だった。
残念ながら、浜も、海も、壱岐に比べると、きれいさでは格段に落ちる。
わずか船で1時間そこらの対岸?なのに、なぜ、こうも違いがあるのだろうか。
ただ、貝殻は、たくさんあった。
白い2枚貝のがやたら多い。
貝柱の部分が弱いのか、扇のかなめの部分に穴があいているのが
ほとんどである。
穴のあいていない完全なのを探すが、これがなかなかない。
ようやく10個ほど集めて、ふりかえると、
出入り口の目印に砂浜につきさしておいた傘が
はるか後方に見えていた。
タオルでおみやげの貝殻をあめちゃん包みにして、帰り道につくことにした。
虹の松原駅から、再び筑肥線に乗ることになる。
周遊券の範囲内だから、乗り放題なのだ。
30分に1本の列車は、ちょうど出たばかりで、
1本しかないプラットフォームのベンチに座って、
目の前の鏡山(284m)を眺めている。
相撲の親方に鏡山というのがいたっけ。
列車がきた。
しばらくの間、虹の松原に沿って線路はつづく。
松原が途切れたあたりからは、唐津湾が見えてくる。
このあたりから、海岸線と国道と鉄路が接近して走る。
なかなか見事な車窓風景である。
列車は、博多西郊の姪浜から博多地下鉄に乗入れて、
終点博多まで行く。
いつのまにか眠っていたらしい。
急に車内がにぎやかになったので、気がついたら、もう姪浜だった。
おまけに、右隣の清楚な美人の女子高生にもたれて寝ていた。
座席というのは、美人のあとには、美人が座るものなのか?、
女子高生が席をたつと、つぎは、これまたとても可愛い女子大生が
座った。彼女が降りると、かわってキュートなOLが。。。
(おかげさまで目がさめた )
という具合いで、このたびの、珍しく美人に恵まれなかった旅も
最後に、つじつまを合わせてくれたようだ。
(お客さん、終点博多ですよ。起きてください。)